神格級の怨霊
- 菅原道真
【すがわら の みちざね】
菅原道真の怨霊
日本三大怨霊のひとつ。
菅原道真は、公明正大な人物として知られ、多くの人々から尊敬されていました。しかし、彼は政治的な陰謀により、宮中から追放され、九州の太宰府に左遷されました。彼はそこで亡くなりましたが、その後、都で奇怪な出来事が頻発しました。特に有名なのが清涼殿落雷事件です。
これは、菅原道真の死後に発生した事件で、皇居の清涼殿に雷が落ち、火災が発生したとされています。この事件は、菅原道真の怨霊が原因だと広く信じられていました。そのため、彼を慰め、怨霊を鎮めるために、彼を神格化し、神社が建てられました。これが現在の天神信仰の起源とされています。 出典: ウィキペディア - 崇徳天皇
【すとくてんのう】
崇徳天皇の怨霊
日本三大怨霊のひとつ。
崇徳院は罪人として扱われ、不遇な生涯が彼が怨霊とされる由来の一つとされています。死後、安元3年(1177年)、この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。
安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳の怨霊が意識され始めた。 出典: ウィキペディア - 平将門
【たいら の まさかど】
平将門の怨霊
平安時代の関東の豪族。日本三大怨霊のひとつ。
言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何か月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、頸塚は京都にはない。「太平記」に、さらしものになった将門の首級(しるし、しゅきゅう)の話が書かれている。将門の首は何か月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが、東京都千代田区大手町にある将門塚である。この首塚には移転などの計画があると、事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。御首神社に伝わる話では、将門の首は美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという。 出典: ウィキペディア - 早良親王
【さわらしんのう】
早良親王の怨霊
早良親王は、光仁天皇の皇子、母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太子に立てられたが、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、絶食して没した。崇道天皇と追諡されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。 その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、近衛少将兼春宮亮大伴是成が淡路国津名郡の山陵へ陰陽師や僧を派遣し、陳謝させたうえ墓守をおいた。しかしそれでも怨霊への恐れがおさまらない天皇は延暦24年4月、親王の遺骸を大和国に移葬した。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。 出典: ウィキペディア - 祟り神
【たたりがみ】
畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々。恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。 出典: ウィキペディア
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